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松月院   MAP 3-C2
 
 
曹洞宗 万吉山(ばんきざん) 宝持寺 松月院
ご本尊 釈迦如来
所在地 赤塚8丁目4-9
交 通 ・東武東上線 下赤塚駅又は成増駅下車徒歩20分
    ・成増駅北口から赤羽駅行バスで赤塚八丁目下車
  歴史
区内にある寺院の中で最も由緒のはっきりしたお寺。
康正(こうしょう)2年(1456)赤塚城に移った千葉自胤(よりたね)が、自分の壇那寺として、延徳4年(1492)に地元の古寺であった宝持寺へ土地を寄進して、寺名を松月院と変えさせたと言われています。お寺の屋根に見える三個の紋は月星の紋といい、千葉氏の紋所です。 徳川家康が江戸に移り、後北条氏側だった千葉氏の赤塚城が廃城となった翌年の天正19年(1591)に、千葉氏にならって赤塚のうち40石をこの寺に寄進しました。以来御朱印寺として幕府の保護を受けました。

墓地内には、千葉自胤、奥方の竜光院殿の墓標があります。また児童文学の名作「次郎物語」の作者下村湖人(1884〜1955)の墓もここにあります。湖人はこの一帯の風物が好きで、この辺りを描写し、松月院で構想を練ったそうです。

洋式火砲の顕彰碑
高島秋帆(たかしましゅうはん・1789〜1866)
千葉氏にも増してこの寺を有名にしたのは、高島秋帆の大砲演習です。長崎の町役人だった高島秋帆は隣国の清がアヘン戦争でイギリスの圧倒的火砲の前に苦しめられているのを知り、国防の重要性を幕府に進言しました。幕府は早速秋帆に命じて外国製の大砲小銃を持って江戸に来るように命じました。・・・と簡単に書いてしまいましたが、秋帆は、渡辺華山や高野長英と同様に冤罪で10年10カ月も幽閉され、釈放後すぐに死を覚悟して上告したんだそうです。・・・そして長男浅五郎、弟子八十余名と江戸時代後期の天保(てんぽう)12年(1841)5月7日に松月院へ着き、この寺を本陣として二晩泊まり9日に山の下の徳丸ケ原(今の高島平6丁目付近)で幕府の役人や大名が見守る中、荒川に向かって実弾射撃を行い、歩騎兵の調練など西洋兵術の成果を披露し見学者を驚かせました。これが明治の新政府になって実を結び、後年日本陸軍が出きたので、いわばここが陸軍発祥の地と言えなくもありません。ちなみに、秋帆は「陸軍の父」と言われているそうです。

村役場跡
明治22年(1889)町村制施行により、独立していた赤塚6ヶ村は併合され赤塚村となりました。役場は施行当初仮に松月院置きましたが、明治25年ここに役場が新築され、昭和7年(1932)に板橋区が誕生するまで村政が行われました。

地名の発祥
赤塚村自治記念碑の場所には昔大きな古墳があり土地の人は、荒れ墓、荒れ塚と呼んでいた。これがなまって赤塚の地名になったといわれており、地名発祥の地です。

乳房榎
明治の人情咄の大家として有名な三遊亭円朝の創作落語「怪談 乳房榎」のモデルとなった樹の4代目です。 「怪談 乳房榎」というのは、絵師菱川重信(ひしかわしげのぶ)とその奥さんを寝取ろうとして弟子になった磯貝浪江(いそがいなみえ)の咄です。磯貝に殺された重信には真与太郎(まよたろう)という赤ん坊がいて、磯貝は真与太郎を殺せと下男の正介に命令しますが、正介は殺したと嘘をつき、松月院に逃げ込み寺男として住み込みます。赤ん坊は空腹で泣きますが飲ませる乳がありません。そんな時に榎の1本から乳のような汁が垂れていて赤ん坊は喜んで飲み、すくすくと育っていきました。磯貝は、真与太郎が生きているのを知り松月院行き、太刀をふり上げると、重信の幽霊が出てきて磯貝を退治するという筋です。かなり艶っぽく、歌舞伎にもなっているぐらいなので、演技力もいる咄だそうです。 この榎は「子育ての榎」として子をもつお母さんがお参りするようになりました。

(板橋区教育委員会資料より。秋保のところ「板橋の二本の榎から」星野克行著より)